wirohaさんの記事を読んで私も自分のことを書いてみようと思い、この記事を作成しました。京都でWebエンジニアとして10年くらい働いているchisacoです。
経歴は簡単に言うと、文系情報系大学卒 → システムエンジニア → dropoutして図書館で働く→ またWebエンジニアとして再チャレンジ → 今に至る、です。
幼少期〜中学生
おとなしい、本が好きな子供で、クレヨン王国とかをよく読んでました。学校の勉強はそこそこできて、科目は国語と社会と図工が好きで、体育が苦手で嫌いでした。母親がピアノの先生だったので、私もピアノを3歳から高校生までずっと続けていたけど、正直ピアノは毎日練習しなくちゃいけないし全然楽しめなかったです。でも従順で臆病な子供だったのでイヤイヤ続けてました。小学校の卒業文集の将来の夢は、親の期待を忖度した結果、「ピアニスト」と書いてます。ちなみに私は二人姉妹の長女で、妹がいるのですが、妹はピアノで音大まで行ったのになぜか職業は同じエンジニアになっています。
中学生の時に父親がWindows98のパソコンを買ってきて、初めてインターネットに出会いました。たぶん最初の検索ワードは「るろうに剣心」な気がします(笑)。当時少年ジャンプで連載されてたるろ剣が好きだったので、それで検索したらファンページや関連サイトがずらっと出てきて、「えー!インターネットすごいー!」ってなりました。妹以外に身近に同じ興味を持つ友達はいなかったので、夜な夜なファンサイトを回ったり、CGIのチャットルームで知らない人と話したりしてました。ちなみに家のインターネット回線はケーブルテレビを使っていたので、みんながよくこの時代の話をする時に出てくるテレホーダイを知らなかったです。
高校生
学校の成績と内申もよかったので、住んでた学区の上から2番目か3番目くらいの公立の進学校に進みました。志望校決める段階で塾の先生から「1番いい高校に行ってレベルが高くてついていけないより、2番目くらいのほうがいいと思う。女の子だし」みたいなことを言われたような記憶があり、その時は「確かに勉強ついていけないよりそこそこのほうがいいや」とだけ思いました。今考えるとなんかおかしい、特に最後の「女の子だし」ってやつ。
でも進学した高校はすごくいいところで、「床が傷むのを防ぐため、下駄とハイヒール禁止」以外の校則がなく、私服でも髪染めてもOKな学校で「金髪ですごくチャラいけど勉強もちゃんとする」みたいな生徒がいる自由な学校でした。
部活は有名な先生が顧問をしている合唱部に入り、ベートーベンの第九とかゴスペルとか戦争がテーマの合唱曲歌ったり、ミュージカルしたりCMソングを踊りながら歌ったりしてました。青春。
そしてgeocitiesで自分のサイトをぽちぽちHTMLで作ったり、日記サイト(blogはまだだった)も流行ってたのでなんども数日書いてはすぐ書かなくなって放置してました。それからバンドのL'Arc〜en〜Cielにどはまりしたので、ラジオの文字起こしとか、ファンの二次創作小説サイトとかをよく見てました…テキストがメインのインターネットの時代。あとFlashもあったね。
高校は楽しかったけど勉強がおろそかになって、特に数学が苦手で赤点をとったこともあります。高校3年の時、クラスメイトの多くがセンター試験を受ける予定だったので、その対策用の補習授業かなにかを私もなんとなく受けようとしていたら、その時担任でもあった男性の数学教師に「なんでここにいるの?」と言われたのを覚えてます。その時、「あ、私センター試験も受けれないくらい(この授業取っても挽回できないくらい)数学は致命的にできないんだ」と思って数学を諦めました。
今考えると、確かに数学は苦手だったとは言え、ここで決定的に諦めるのももったいなかったのではと思います。理系か文系か、みたいな考え方も普通だった時代で(今もそうかも。文理を分けて考えるメリットほとんどないと思う)、もちろん傾向はあるにしても、文系だから数学諦める、という考えは単に可能性の道を閉ざしただけな気がしています。
そういうこともあり、センター試験を受けないといけない国公立は外して、英語+1、2教科で受験できる私大に志望校を絞りました。学費高いけど、私大でもいいよと言ってくれた親に感謝です。文理総合の関西大学総合情報学部のキャンパスが家から近く、インターネットとかパソコンも興味あったのでそこに決めました。
大学生
関西大学総合情報学部は文理融合なだけあって、メディア情報系・社会情報システム系・コンピューティング系の3つの科目が学べました。チームでキャッチコピー考えて広告を作ったり、DTPソフトやPhotoshopを触ったり、コンピュータと倫理について学んだり、UNIX(Solaris)やLaTeXを触ったり、mailコマンドでメール送って「え、普通にメールアプリ使えばいいじゃん、なんでコマンドでやるの?」とか思いつつ過ごしてました。
大学で学んだことはアラン・チューリングとか、アラン・ケイとか、マーシャル・マクルーハンとか今でも人の名前ばっかり覚えてます。(アラン・チューリングはコンピュータ・サイエンスおよび人工知能の父と言われる。ベネディクト・カンバーバッチ主演の映画「イミテーション・ゲーム」が面白いのでおすすめです。)私は純粋なコンピューティングだけよりも、コンピューターやインターネットと社会の関わりに興味がありました。今考えると大学は結構広い範囲が学べてよかったなと思います。でもたぶん電子回路作るような授業の単位は落としてた気がする。
3回生で第一希望のゼミに入り、ゼミの先生は女性で京大卒でNHKに入ってディレクターやってるうちに研究がしたくなって論文書いたという経歴の方でした。正直私からすると「めっちゃ賢いしキャリアもあるしちょっと遠い人」だったんですが、聡明という言葉がぴったりの、落ち着いていてかつチャーミングな部分もあり、素敵な方でした。尊敬する先生が同じ女性、というのはたぶん私にとって大きくて、うまく言葉にできないけど学生として勉強(卒業論文)以外にもたくさんのことを教わった気がします。
新卒で就職
大学が情報系だったので、その頃流行ってたシステムエンジニアがよさそうかなと安易に思い、関西だと少し珍しかったWeb系のSIerに就職しました。会社には同じ大学学部卒の先輩もちらほらいたので、わりと普通のコース、という感じだったと思います。同期は10数人いて、男女は半々くらいでした。給料はそこそこで、普通に勤続していれば30代で年収800万円いけるかもくらいだったと思います。
金融系のWebシステムのチームに配属され、Java, Struts, Spring, Hibernate, Seaser2, shell script, Perl, PHP などを触ってました。大学では情報学の基礎はやってたけど、プログラミングの授業は取らなかったので、関数って?戻り値ってなに?というレベルでした。知らない言葉をググってたら別の知らない言葉がでてきて検索無限ループしてました。
ほとんど何もわからないなりに、だいたい2〜3年もすると社員はコードはあまり書かずに設計をして、実装は協力会社さんにお願いする、みたいな働き方になっていきました。あまり成長してないのに、とあるプロジェクトのサブリーダーっぽい立ち位置になり、でも自分でもちょっとコード書いたりテストもしつつ協力会社さんも回すのは完全にキャパオーバーで、残業時間が月100時間を超えるか超えないかという状態になりました。この時代は「まぁたまに忙しい時はそうなるよね、でもそれなりに給料もらってるしそんなもんでしょ」みたいな雰囲気で、他にもっとガチでデスマーチみたいなプロジェクトもあったので、余計に「この働き方、私には無理です」となり4年勤めた会社を辞めました。辞める理由は他にもあったのですが、1番大きかったのはやっぱり長時間労働でした。
ちなみに、この長時間労働で死にかけてた頃、ジャニーズの嵐にはまりました。夜、くたくたで疲れてテレビをつけたら、バラエティ番組で櫻井くんが乳首開きTシャツを着てるのを見て、やっと笑えていました。お昼休みにiPhoneで嵐の曲を聞いて、自分を奮い立たせてなんとか午後の仕事に戻れてました。
一旦dropout
働きすぎてバーンアウトぽくなってたので、半年くらい無職期間を経て、そのあとは違う仕事をしようと考えました。本が好きだったので大学図書館の書誌情報をメンテナンスする仕事を見つけて、契約社員になりました。書誌情報のデータを更新をしたら紙に印刷して蛍光マーカー引いて、手動でdiffをとる、みたいなアナログな仕事でした。でも逆に新鮮で、毎日、本を触れるし(大学図書館なのですごくいろんな本が来る)、定時で帰れるしで3年もやったのですが、時給がバイト並みで、それはその会社だけでなくて図書館業界全体の構造が原因で今後も給料がよくなる見込みはなかったのでずっと続けていける仕事ではないと思い、別の仕事を探し始めました。
この頃、おそらくTwitterでフェミニズムに出会いました。フェミニズムは私にとって世の中の解像度を上げてくれるメガネのレンズのようなもので、私がどこか生きづらいと感じている部分の原因を明らかにしてくれました。フェミニズムを知ると、世の中の不条理がよく見えて怒りが沸き起こります。私は普段全然怒ったりしないしなるべく波風立てずに生きていきたいタイプだったのですが、「怒り」はすごく大事な感情だ、というのにも気づけました。ちなみに好きな映画は「マッドマックス 怒りのデスロード」です。シャーリーズ・セロンがめちゃくちゃかっこいいです。
もう一度チャレンジ
図書館の仕事を辞めて、次に何を仕事にするかいろいろ考えました。でも他にやってきたことはシステムエンジニアだけだったのと、私が辞めてからWebシステム業界全体の働き方が良くなってるようにニュースなどの情報で感じていたので、もう一度Webシステムを作る仕事にチャレンジしてみようと思いました。たまたま前のシステム会社にいた先輩が声をかけてくれて、京都のベンチャー企業に運良く就職することができました。このあともフリーランスになったり3ヶ月フィリピン英語留学したりまた別の会社勤めしたりいろいろあったんですが、直近だと、RailsやCakePHPで業務システムを作っていました。
もう一度この業界に戻って来た時、以前の技術はほとんど使えなくなってるしそれ以外にもいろいろ苦労しましたが、ぐっちゃぐちゃでも前に進みました。そして、自分のソフトスキル的な強みを見つけたり、チーム開発を経験したりして、開発ってちょっと楽しいと感じられるようになりました。そしてどうやら、私はめちゃくちゃ技術力もないし経験も少ないダメなエンジニアだとずーっと思っていたけど、そうでもなかったし、今時点で足りないスキルがあったとしてもできることがたくさんある、ということにも気づいてきました。正直まだまだ「あ〜私はほんとだめ〜何もできないやつ」って思ってしまうことが多いんですが、「自分がダメだと思うことで考えるのを放棄してる、本気出すのを避けてる」だけだと思うのでこの考えを改めたいです。
今の夢と女性のエンパワーメント
今は、またフリーランスとしてお仕事をしています。というのも、「海外に住みたい」という夢があるからです。夢を実現するために、少しでも可能性のある会社とお仕事をすることにしました。
実はこの夢は数年前からずっと思っていたことで、理由の一つは、日本のジェンダーギャップ(と男女の賃金格差と実質賃金の下降)の大きさです。海外でも特にTech業界のdiversity & Inclusionは大きな課題(つまり問題がないわけではない)ですが、日本よりはずいぶん進んでいます。私はまだ英語も全然できないし、技術力もまだまだだけれど、Webプログラマーやソフトウェアエンジニアは海外でも仕事がたくさんあるので、チャレンジしてみようと思いました。
もちろん、日本にいても状況を改善するためにできることはたくさんあるので、選挙に行くし、政府の政策に不満があったらChange.orgで署名したり、BLMのデモに参加したり、友達や同僚と社会問題について話します。また、女性エンジニアのコミュニティCode Polarisに参加してみんなで協力しあったり私も助けてもらったり、RailsGirlsやWaffleでTechに興味ある女性や女の子は応援はこれからもしていくと思います。
なぜWebエンジニアになったのか
最後に、私はなんでWebエンジニアになったのかもう一度考えてみました。ひとつの理由は「(たとえ今は独りだと感じていても)あなたのことをそのままでOKだと言ってくれる、あなたの話を聞いて、共感してくれる人々と繋がれる」という、インターネットの善い側面を信じているからだと思います。もちろん、ネットはいい側面だけを持ってるわけではない(昨今も社会問題になってるネット陰謀論にハマる人々とか)と思いますが、私は良き面を大事にしたいし、見つめていきたいと思っています。